雑記

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表現にはオマージュがつきもの

日本は翻案が得意と言われている。仏教のいいとこ取りをして神道と共存させたり、明治維新後に西洋文化を取り入れたりしている。西洋神話や宗教の世界誕生から国誕生などのストーリーが古事記に似たようなもの(?)があったりと、日本文化は損なわずピンポイントでインパクトあるモチーフを混ぜ合わせているのだろう。
モチーフにしても、その領域に関して知識がなければオリジナルのようにしか見えない。しかも、表現者が現代にカスタマイズしてくれているので、むしろわかりやすく楽しみやすい。神話や聖書を読むには膨大な時間がかかるので、エンタメの作品として表現してくれるのは、娯楽や入り口としては大変ありがたい。

 

そこで問題はオマージュとパクリの線引きだ。法的な問題はクリアされたうえで表現に取り入れたら、そしてべき論ではなく、こんなオマージュのされ方だったらいいなということを考えていきたい。ぼくは作品がよくなるならオマージュはよいと思う。

 

ではなにがイヤなのか。

それはオリジナルで表現すべきところを、パクってしまうことだ。マンガを例にすると、感動するシーンや苦難を乗り越えるかっこいいシーンのセリフが、そのままだったりする。某マンガアプリの1話目で個性をテーマにしたマンガの名言が出てきたときは、そこで萎えてしまった。他には信長が謀反を止めようとするマンガの扉絵が、筒井康隆さんの小説の表紙と似通っていたり(これはいいのか?)。コピーも同じ構造なのはどうなのか、とは思う。
つまり、見せ場は自分から表出した表現を使ってほしいということだ。山場をパクりの作品は、他の箇所もクオリティが低く感じる。本の名前や帯でも、広告や映画の表現でも同様だ。

 

チープなパクリをするのは、ひとつひとつの技術や作品の完成度が低いことの証明なのだろう。インターネットによって誰もが表現する自由を与えらえた恩恵でもあるが。

詰まる所ところ自分が気に入らない理由は、つまらない作品に時間を費やしたくないのだ。また、売れるものつくるには、良い作品だけを体験したいというわがままもあるが。売れるものの必然性として、作品だけが持つ独自性は備わっているのだ。味わう側にも作品をリスペクトする権利はあるので、願うくらいなら構わないだろう。