雑記

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どんなコンテンツがおもしろいといえるか

「おもしろきこともなき世をおもしろく」と高杉晋作は詠んだ。旅行や映画、本、漫画、遊園地、飲み会、SNSなど、ひっくるめてコンテンツを楽しむという行為はわかる。しかし、おもしろいとはどう説明すればいいのだろうか。抽象的な概念であり、また他の人がおもしろいを論じるときは個別具体的で立体像がつかめない。

だが、本をはじめとするコンテンツはエンターテインできなければ消費されることはない。そしていいものは必ずおもしろい。これからクリエイティブな仕事をしたいのならば、避けては通れないので、これを考えていきたい。

 

おもしろいを分解してみる

一般的におもしろいと感じたときには、楽しいや興味深い、役に立つ、刺激的、有益、夢中などの感情を抱くことが多いだろ。一見すると無秩序なようだが、共通点があるはずだ。ぼくが考えるに3つある。

 

ひとつは共感だ。おもしろいと感じた対象のなかに、同じ感情を抱くのだ。なぜ共感するかというと、そこに願望があるからだ。たとえば映画で友情のストーリーに感動するのは、自身も友情という感情を手に入れたいからだ。その思いがコンテンツを通して代償行為とすることにより、願望が満たされる過程と結果におもしろいと感じるのだ。

 

もうひとつは孤独の払拭だ。一体感と言い換えてもいい。人間は感情と言語を持っているがゆえに、孤独を感じる。その孤独を他人と癒着して解消しようとする。なので、集団をつくりなにかに取り組もうとする。
例をあげると、学校に行くことや部活、サークルだ。会社に所属するのも、クラブチームでスポーツをするのも同様だ。集団的なことを除けば、なにかのファンクラブもそうだし、祭りもそれに当てはまるし、最小の単位だと夫婦が該当する。

もちろん、個人の趣味趣向によってどのコミュニティに参加するかは異なるが、興味以上に求めているのは他者との一体感にほかならないだろう。

 

さいごは知識欲だ。

興味や利益、差異が気になるのは、その対象をより知りたいと思うからだ。どうでもいいことを深く追求しようとは思わない。自分が応援している野球やサッカーチームの結果をいつも追っていたり、政府の制度改正が気になったり、著名人のゴシップを見たりなどさまざまではあるが、対象の顛末を知りたいと思うのだ。

 

以上の3つの要因が絡み合い「おもしろい」と感じるのではないかと思う。そしてそう感じたときにぼくたちは、夢中になり没頭状態になる。「いま、この瞬間、それ以外考えられない」状態になっているのだ。

 

おもしろいと感じるのが個々人で異なる理由

カニズムはわかったが、個体差があるのでおもしろいと感じる対象や箇所は違うし、文脈や状況も異なるだろう。なぜか。

それには人によって知識量や思想が違うからだ。

 

子どものころにつまらないと感じた本が、大人になったら意味がわかりおもしろく感じるとはよく聞く。これは知識や経験が増えたことにより、その本の理解や感じ方が変化したからだ。知識によって世界の見え方は変わるという。

また、生い立ちや育ってきた環境によって思想は異なる。たとえば、西洋ではキリスト教が多くの人に信じられているが、東洋では仏教の信徒が多い。神がひとりしかいないという考えしか持たない人に、多くの神が存在すると言っても信じないだろうし、それを知ろうとはしないだろう。

 

つまり同じコンテンツでも、個人のバックグラウンドによって感じ方が違うのだから、おもしろいと思う着眼点が異なるのは当然のことだろう。

すべての人びとに受け入れられるおもしろいコンテンツは幻想ということになる。それを受容したうえで、なにがつくれるか。時代性を考慮しながら考えていきたい。

また「いま、この瞬間、それ以外考えられない」状態は、好きなことだけでなく嫌いなことにも適用されるのではないかと思った。たしかに脅威であったり身の危険を感じているときは、それ以外思考の余地はない。ある意味では好きと嫌いは表裏一体と言えるのかもしれない。