雑記

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正義という欲望から背を向けろ

科学は限りなく正しいことが証明されている。ならば、人の感情も科学的に解明されると思うが、そうではない。いまだに人間の心、脳の部分はブラックボックスも多い。

そんなあいまいな感情とどうしたらうまく付き合えるだろうか。そこで最近気になった「正義」を執行する人の感情を切り口に考えていきたい。

 

個人言語という概念

正義のことばを分解すると、正しく公共に尽くす道理のことを意味する。道は物事の筋道であり、理は自然の摂理のことだ。もともとは中国哲学、仏教の思想からきたことばであり、つまり道理とは自然の原理と言えばいいのだろう。

正義のおおよその意味はわかった。では、何をもって正しいとするのか。正義の反対は別の正義であり、善と悪にわけることはできないという。それはおそらく正しい。なぜなら、時代によって正しいとされる概念は異なるからだ。

 

たとえば、紀元前では、王様や権力者が殺人をすることは罪にならなかったし、近代の戦争では国通しがお互いを殺し合っても、大義名分の名のもとに罰せられることはない。むしろ、ひとり殺せば殺人だが、1000人殺せば英雄ということばが生まれるくらいだ。しかし、戦時下でない国では一生牢獄に入るか、死刑になったりする。なぜこうも違うのか。

それは時代によって「正義」という意味が揺れ動いていることに他ならない。また、文化が違うのだから、敷かれている法も異なるのは当然だ。

 

このように、国、時代、文化の多様性によって、同じことばでも間反対の意味になったりする。このことを踏まえ、現代の日本において使われる正義を考えてみたい。

 

正義という衣

そもそも正義とは、共同体の弱者の利益を得るために行われる行為のこと言うはずだ。豊かで苦痛を知らない支配者である強者と、圧政を敷かれ搾取される弱者の二社の構造がある。つまり、救済や抵抗など、虐げられたものの課題解決の側面だ。カウンターカルチャーとも言える。

 

正義とは抵抗の行為であるなら、現代でところどころで行われている「正義」には疑問を覚えることがある。たとえば、著名人の不倫や不祥事を叩くことであったり、政治家の政策を批判したり、大企業の失策を非難したりと、抵抗と関係ないことを正義と言っているようなことがある。なぜこのようなことが起こるか。

それは抵抗の大義名分以外に、正義執行のメリットがあるからだ。

 

それはおおきくわけてふたつある。

ひとつは、ルサンチマンサディズムだ。上位者に対しての嫉妬は建前として使われやすい。友人の出世や結婚を素直に喜べなったことはないだろうか。これがルサンチマンという現象だ。それが行き過ぎると行為に対して快楽を感じるようになり、行動に対してドーパミンがいつも出るようになる。これがサディズムだ。つまり、他者を攻撃することに快感を感じ、それが常態化していく。

 

もうひとつは、認知機能の低下だ。行動の判断は前頭前野で行われるのだが、認知機能が低下すると利益と不利益をジャッジするブレーキが弱まりアクションを起こす。どういうことかと言うと、正義を行うことは行動に対して利益が少ないのだ。怖い人に肩をぶつけられて痛いから殴り返すのは、最初の一発よりひどい目に合いそうだから我慢するのと一緒だ。それが自分と関係ないのならなおさらだ。他人の悪口を言うと、自分のほうの被害がおおきくなるのはわかるだろう。

(自分が正しいと思う)行動をするよりスルーしたほうが、総合的には利益が大きくなるが、認知機能が低下した場合、それが理解できないから行動を起こすのだ。

 

 

他者への攻撃は動物的であり、正義とは人間の生存戦略なのだ。それを悪と断じることは、生物である以上できないだろう。それがなければ、支配階級と被支配階級という生まれで人生は決まっていたし、嫉妬心や欲求があるからこそヒトは進化してきた。

しかし、ITの手軽いカタルシスは効能はあるのだろうか。本能に背を向け、根源の欲求に自問自答すべきかもしれない。