雑記

雑記

理解・説得・納得

メディアで評論家という職業を見ることがあるだろう。評論家と聞くと、なにかの専門家なのだと想像しがちだが、必ずしもそうではない。もちろん、職業的には専門家と言われる人ではあるが、その道の第一人者かと言われると疑問が出てくる。つまり、知識人として特定のテーマに関して、その人なりの見解を話しているに過ぎないのだ。そこに明確な根拠はない。しかし、一定の人は、評論家が言ったことを事実だと解釈する。

同じような事例として、読売新聞の「編集手帳」や朝日新聞の「天声人語」を思い出してみよう。たしかに文章は読みやすく、自分と違った視点で書かれていることが多いので、この人はその分野の専門家なんだな、と思ってしまう。だが、書いているのは新聞記者なので、その道の専門家ではない。その人なりの見解を述べているだけなのだ。

 

さて、本日タイトルの「理解・説得・納得」だが、これは人が特定の事柄を受け入れる段階のことを意味している。

理解は、それがどういう仕組みなのか、どういう意味なのかなど、事柄の構造を理解し、説明できる段階を示す。

説得・納得は、事柄を理解できていない人に、言語活動(弁舌・文章など)をもって、理解を促すことだ。理解・納得が同じ意味じゃないかと言われそうなので、もう少し説明しよう。両社の違いは、説得・納得を促された受け手が、こころから賛同してくれるか否かだ。どういうことか。

 

違和感と支持

説得は、論理や言っていることは正しい。それは認めざるを得ないが、なぜかその人が言っていることを正しいと言いたくない。なぜか。それは、その人が好きになれないからだ。いや、もっといえば、その人が信用できないのだ。理由は自分の考えを無理やり変えようと感じるなど人それぞれだが、その弁論・文章に不快感を抱いているのだ。

では、納得はどうか。それは、物事を理解したうえで、それをこころから受け入れている状態を指す。話を聞いたとき、なるほどと思い膝を打った経験があるだろう。その感覚に近いかもしれない。

歯に衣着せずに言うと、説得しようとする人には胡散臭さを感じ、納得させてくれた人にはファンになってしまう。こういうことではないか。

 

これは私にとっても痛い話だ。以前、知人にインタビュー原稿を見せたところ、「おれのことば、ちょっと鼻につく感じしない?」と言われたことを思い出した。決して知人が鼻につく人間性の持ち主なのではなく、私が上から目線で文章を書いてしまっただけなのだ。

文章は論理の正しさが重要だ。これに間違いはない。事実性のファクターが大きい新聞などのメディアでは説得性が必要だ。しかし、いくら論理が正しかろうと語っている人間が、もはや嫌いなら聞こうとすら思わない。これは、商業出版に関わる書き手が、考え続けなければならないテーマだろう。文章の美醜にこだわるよりも、読者がいることを忘れずに文章というコンテンツをつくっていきたい。