書くのではなく、翻訳する
感情の翻訳など、ことばにする(翻訳する)ことを、習慣化したほうがよい。
文章を書く=翻訳のしかたを学ぶ。ことだ。
言文一致の果たされていない世界で
執筆とは、「取材の翻訳」である。
文章の書き方、文章術などは「翻訳のしかた」のことで、とくに日本語の場合、「話しことばから書きことばへ」の翻訳が、文書術の鍵。
「話ことばのまま」書かれた文章は、ほとんど存在しない。身近な例では、時代劇などの「書きことばとしてのセリフ」。これは言文一致が、文語の側でなされたものだ。
古賀氏は、言文一致の幻想を取り払う「翻訳」の意識が必要と言う。
蛇足だが、英語は「書きことば」と「話ことば」の距離がかなり近い言語だとされている。
論理をつくる「主張・理由・事実」
論理的…論が理にかなっていること
論…みずからの主観に基づく考えの総体
理…客観。誰の目にも明らかな客観的事実、実例、史実など。
つまり、みずからの主観に基づく論が、なんらかの客観(理)によって裏打ちされたとき、その言説は「論理的」な文章となる。
主観と客観構造は、三層構造で考えるとよい。
・主張
論理は必要だが、倫理的に「正しいもの」である必要はない
・理由
理由のない主張は、ただの思いつきだ。「なぜなら」の先まで語られてはじめて、その主張は「論」となる。論じることは、主張の背後にある理由を指し示すことだ。
・事実
主張と事実を下支えするものが、「事実」だ。
なにを論拠に語っていくか
「主張、理由、事実」の雛型で、どこか強引で、おもしろみのない文章になるのは、「事実」の選択ミスから起こる。
主張と理由を支える論拠は、データや数値でなくてもよい。「実例」や「類例」を論拠とすることによっても、論理性は担保される。
論拠とは、図書館や資料室から引っぱってくるだけでなく、「自分のあたま」のなかからも持ち出すことができる。
人はなにが揃えば納得するのか
コンテンツと「納得」の関係性を考える。
なんらかのテーマが提示されているかぎり、コンテンツは主題の「解決」へと向かわなければならない。「結論」とはいえなくても、テーマ(主題)に紐づいた「気づき、発見」の提供が期待される。
これから論じるテーマが、読者(あなた)にとっても無関係ではないと知ってもらうこと。それができてようやく、納得の下地は整う。「課題設定」と「課題解決」のあいだには、課題を自分ごと化する「課題共有」のプロセスが必要なのだ。