雑記

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取材執筆推敲 備忘録「取材①」

編集職、ライターを目指すにあたって、文章の教科書なるものを探すために、インターネット上の記事やライターの随筆などを読みあさってみた。たしかに枝葉の技術は多く見つかったが、書く技術の「教科書」といえるものについぞ出会わなかった。

とはいえ、文章術の書籍は谷崎潤一郎をはじめとして現在までに文豪、新聞記者、編集者、ライター、大学教授など、さまざまな肩書きの著者がいる。文章を書くために理にかなった論を展開している本もあるだろう。しかし、私がなりたい職業は編集者、もしくはライターである。なので、商業出版に耐えられる文章を書けるようになりたいと思う。

さて、前置きが長くなってしまったが、つまり編集・ライターの専門家が書いた本を参考に独学しようということだ。2021年4月度に古賀史健氏の著書「取材・執筆・推敲」発売された。テーマはライターの教科書である。

書評というより、備忘録に近いが書こうと思う。この本は、タイトルと同じく、取材・執筆・推敲の3つのテーマにわかれている。なので、章ごとにまとめて書いていく。今回は取材の章から。

 

すべては「読む」からはじまる

古賀氏はすぐれた書き手は、ひとりの例外もなくすぐれた読み手であるという。よき読者とは、よき取材者であり、よい観察者だと。取材者とは、あくまで自身の主観で捉えた世界(問い)を、自らの言葉で言い表せる(答えを出す)者である。

なので、書くことの大前提がよき読者であらねばならず、この順番は変わることはない。

 

なぜ、あなたの文章はつまらないのか

すぐれた画家は、「目」がすぐれている。黒澤明監督を例に、芸術家は凡人が見えない世界が見えるから、おもしろいものが創れるのだという。

審美眼が磨かれてないので、「読者としての自分」が甘くなるらしい。そしてその弊害は、取材対象を読むことができず、自分の原稿を読むことができないことだ。

 

インタビューするように読む

取材者のベースは、読者がつくりやすい。映画や音楽鑑賞よりも、本のほうが「読み」やすいからだ。映画などが「時間の芸術」なのに対し、本は時間配分の主導権が読者にあるため、立ち止まって考えることができるからだ。

能動的な読み方の基本として

・「この人に会ったらなにを聞くか」を考えながら読む

―読み終わったら、独占インタビューがあるつもりで

・書かれたことでなく、書かれなかったことを考える

―自分のあたまを使わない、簡単な誰にだってできる質問は、ある意味いちばん失礼な質問である。自分で咀嚼して、理由を考えよう

・第三者にどう紹介するか考えながら読む

―誰かの書いたことばを、自分のあたまで再編集・再構築し、言語化する行為は、楮的な理解(抽象度の高い理解)が必要だ

・主人公を入れ換えて読む

―複数の視点で読むことで、見落としていた細部や、矛盾に気づき、俯瞰的に読む訓練になる。とくに古典は、主人公を変えて読んでもそれぞれのキャラクターがおもしろいので、コンテンツすぐれている

 

ヒントは悪文のなかにある

いい文章の条件は、自分もそこに居合わせているような錯覚を抱く。そして最初からそのかたちで存在していたとしか思えないこと。

悪文は、書き手の存在感が、悪い意味で出てくる。技術的に未熟な文章ではない。雑に書かれているから悪文なのだ。

編集者のチェックがある出版物は、支離滅裂な文章など、ほぼない。しかし、違和感の多い「雑さ」は存在するので、そこを追いかけて自分ならどう書くか、生かそう。

 

わたしという人間を読むために

好き嫌いの好みは、文章に対する好悪に似ている。好きは分析しずらいし、外れることも間々ある。が、嫌いは分解でき、言語化可能だ。嫌いな理由に一歩踏み込めば、自分のありたい願いがわかる。嫌いな文章を読むのは苦しいが、痛みの理由を考え抜けば、自分の進むべき道が見えてくる。

 

読書体力と勇気

読書体力の低下とは、思想が凝り固まっていることだ。

ライターに不可欠な心構えは、自分ごとにして、自分を更新し返事=手紙を書くことだ。他人ごとにして、情報として処理した原稿はおもしろいはずがない。

 

取材を「面接」にしてはいけない

取材は尋問でも、一方的に問いかけるものでもない。

取材、打ち合合わせ、おしゃべりであれ、場の空気をつくるのはいつも「聞き手」である。

 

聴くための土台はどうつくられるか

精神論の多くは、対象を言語化できない「逃げ」である。

おしゃべりを思い出すと、身を乗り出して聴く理由は

・相手の話がおもしろい

・相手のことが大好きである

・自分にとって、ものすごく大切な話をしている

これらを少なくともふたつ以上満たしている。

 

 

次回で取材の項目は書き終わろうと思う。