雑記

雑記

頭を更新していくために観る。会田誠「性と芸術」に関する書評を読んで

美術は自分が感じたまま自由に見てよい、とよく言われているらしい。見た人が当人の感性で楽しめるのならば、そこに意見はない。あくまで楽しむだけなら、の話だが。

しかし美術を評価したい、意欲的に学び・感じ取りたい、競い合いたいと考えるならば、「見方」を知らずに鑑賞するのはナンセンスだろう。スポーツだって知識(とルール)を知らなければ、十分に楽しめない。サッカーはハンド禁止なのに、ハンドボールのように剛速球が飛び交っていたら熱狂してのめり込むことは無理だ。

美術は最低限の見方(と規則)がわからなければ読み解けないものであり、見たままを素朴に受け取るのは間違いであるからだ。美術に限った特別な話ではない。

 

「見る」ことはカオスなことだ。美術とはアーティストが美しいと感じたものを美しく表現するための方法ではないらしい。領域における文脈や思想、技術があって成立するということなのだろう。科学のように論理化され、哲学のように直観というか自然の摂理を一体化させたものだと感じた。
 
とするならば、会田誠の「犬」やその他の表現は、性を商品化したものではないと思う。ブルーピリオド的に言うなら「文字じゃない言語」であり、アートという媒体を通して伝えたかった「何か」だ。アートは不勉強なので彼が何を表現しているかはわからないが、平家物語諸行無常を表しているかもしれないし、2001年宇宙の旅のように宇宙への可能性を示しているかもしれない。

ニュースのような切り取られた情報の解釈することに似ている。自分にとって有用に取り入れるために、適切な「見方」の必要性を改めて感じた。