雑記

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「いきの構造」の視点で見る宣伝の本質とは

広告が邪魔と感じると言われて久しい。とくにインターネットが登場してからは、広告の質が落ちた。なぜか。
不快な広告表現はいやらしい。主にWEB広告やYouTube広告が不快に感じる理由は、質が低い。ぼくが考える質の低さとは、そこに技術もコンセプトもなく、露出量という数の暴力だけが存在するからだと思う。
たとえば、無料提供の安っぽいBGMや、漫画のような強調する視覚効果のように、違和感ある表現などだ。
広告とは宣伝であり、松下幸之助いはく「有益な情報をお知らせする義務がある」とのこと。IT革命以前の広告は、クリエイターたちの作品として世に出ていた側面がある。しかし、いまのネット広告は「露出」、つまりリーチ数という数字のみを追う。なので、薄利多売な広告が乱造され、作品・顧客目線としての質が低下している。
 
元々、広告は必要なものではなかった。が、現代では広告は邪魔・不快なものに格下げされてしまった。それを「いきの構造」で解釈すると、広告の質の低下=いきではない、からだ。
いきの構造は3つの要素を持つ。媚態と意気地、そして諦めだ。ぼくは媚態=誠実性、意気地=芸術性や専門性での培った技術、諦め=押し売りしないが、伝わる視座だと考える。これらが不足するがゆえに、広告が野暮になったのではないだろうか。
 
良い広告は、それが作品として成立する、もしくは、いやらしさを感じず、インサイトを気づかせてくれる。
例としては石岡瑛子さんの広告を見てみてほしい。訴えかけるものを感じた。「石岡瑛子とその時代」を読むと、クリエイターでありながらアーティストで、しかし彼女の中心にはクライアントワークがあった。
仕事そのものが移り変わるいま、サラリーマンが生き残る「サバイブ」のヒントがそこにはある。
 
さて、本書は約100年前の書籍である。国内では西洋思想や文化が流布された。そのカウンターカルチャーになりえる。電子本はこの時間を超えていけないだろう。