雑記

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なぜ娯楽を求めるのか

ストレスがたまったら読書をする、映画を見る、を見る、スポーツをするインターネットを徘徊するなど、個人によってさまざまな方法を取る。ぼくはとくに漫画と読書、音楽が主だ。ただ他にもコンテンツはあり、いわゆる娯楽ともエンターテインメントと言われるものだ。

なぜ人に必要なのか。もちろんストレス解消のためで、なんらかの行為をしてドーパミンが出ればいいのではと。それだけだとモヤモヤするので、娯楽を掘り下げて考えていきたい。

 

大衆化した娯楽

ことばの意味では、人を楽しませる、なぐさめる活動のことをだ。労働や学業と言った義務的な行動、つまり日常とは逆の行動だ。

おおきくわけてふたつある。

ひとつは心理的なものだ。鑑賞したり、見物したり、ゲーム性のもの、交際などがこれにあたる。具体的には映画、読書、音楽、競技観戦、人と会うなどだ。

もうひとつは身体的なものだ。スポーツや旅行、街歩き、体を動かす趣味などがこちらに当てはまる。

 

つまり、仕事以外で興味のあることをすればいい、それでストレスが解消される。こう結論が出るが、なんともしっくりこない。もう一歩踏み込んで考えてみたい。

そもそも娯楽とは大衆文化、サブカルチャーから生まれた。20世紀に入ってから大衆が力を持つようになったからだ。その後、サブカルチャーは多様化し、さまざまなものが生まれた。

ちなみに反対の概念でハイカルチャーがあり、これは美術やクラシックなどのアカデミックな活動を指す。こちらも現代では大衆文化のひとつと言ってもいいかもしれない。ハイカルチャーを享受するためには、その分野の知識や教養が不可欠であり、大衆からは敷居が高い。なので、サブカルチャーなどの障壁が少ないほうが好まれ、広まった。ゆえに、娯楽とはサブカルチャーを指すようになったのだろう。

文化はもともと「耕す」という意味を持ち、転じて人間の精神面での成長を表す語になった。大衆文化も成熟し、高位の存在になった証である。

 

遊びとは願望

このように現代の娯楽のことはわかったが、昔の人はどうしていたのかとふと思った。いまほどの多様性もない。さらに昔は身分制度があり自由な行動もできなかったし、市民の教養レベルも低かったことだろう。江戸時代初期なんかの農民はずっと農作業してるイメージしかないし、どうしていたのだろうか。

むかしの人は「遊び」をしていた。

 

遊びとはなにか。ぼくが考えるにふたつある。

ひとつは、他の動物から考えてみようと思う。動物の遊びは機能からは関係なく、明確な目的なないことが遊びらしい。ただ、その行動を観察すると、身についていない戦闘や逃走の練習だったり、他種族とコミュニケーションを行ったり、自身の能力向上や成長につながる行動だった。つまり、生存競争を生き抜くために、遊びを通して牙を磨いていたのだ。

 

もうひとつは、非日常性である。遊びは日常生活と対置される。日常とは束縛され生産的であり、目的ありきで機械的で秩序が存在する。そして非日常の特性は、精神の浄化と自己充足のふたつだ。

日常の精神的な鬱屈や葛藤、苦しみなどが遊ぶことによってカタルシスが生まれるのだ。また、実現したいことや目標に乖離があるときは、投影や体験を通して自己を充足させる。ふたつとも日常では解決することができないので、遊びを通して情動的な感情を満足させるのだろう。ということは、学問や演劇、音楽、宗教、競技などあらゆるものが遊びに通じていると言える。

 

遊びをする理由をまとめると、ひとつは成長のためで、もうひとつは精神の解放と願望充足の代償行為だったのだ。これらが満たされていれば、あらゆる文化的活動が遊びといえるだろう。そして、自分以外に強制された行動でなければ遊びなのだ。ということは、仕事も遊びになりうるということだ。