雑記

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不感症は視野狭窄を生み、存在を軽くする。「世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか」を読んで

本気で後悔したのはいつだろうか。各教育機関での受験か、一番好きだった人の失恋か、結婚か、新卒か、それとも親しい人の死に目だろうか。呼吸困難になるほど泣いたのは小学生以来な気がする。
時が経ち過去を悔いるのは、なぜか。それはたぶん、いまに満足していなからだ。いや、将来のたどるだろう経験より、過ぎ去った時間のほうが楽しかったと思っているからではないかと思う。
そうなってしまうのは、思考し選択する根底にある、人生の信念なるものが薄いからだと感じる。朝起きるのがつらいのは思想に連なる目標がないからだし、未来に希望が持てないのは、そもそも未来の展望がないのだ。展望がないのは歳を重ねて、感覚の不感症になったから。
ということを考えながら、本書を読んでみて考えたことを書いていこうと思う。
 
本書の感想など
東大生やインテリに足りないのは哲学らしい。高学歴はあらゆる「知」を学び取得するため、情報処理能力と知的生産性が高い。
ではなぜ、その中で人生を悔いる人が一定数いるのか。
 
それは科学的な知識は博識だが、人生を支える思想=哲学が欠けているからだろう。なので、能力や経験、人格、人脈は最高峰なのに、好きなこと、自分の価値観に従うこと、人生にとって意味のあることと乖離する。それを中年になって気づき、崩壊するのかもしれない。「自分にどれだけ向き合うか」「内観」「本心で生きる」ことに頭脳明晰さ、知性の高さは関係ない。
とはいえ、知識と思考力が強い方が人生哲学的なものはもっている可能性は高い。そもそも高学歴だったり結果を出すのは、その行動を支える哲学を持っていたからだ。だがむなしくなるのは、それが偽物=本心でなかったからだろう。
 
哲学が人生を支える羅針盤になることはわかった。では美意識の意義はなにか。
ぼくの体感で必要なわけは「気づく力」を付けるためだ。美意識を持つと快不快に敏感になる。論理ではなく、感覚によって最適解を選べるようになる。いや、長期的に自分に良い影響を与える選択肢が浮かび上がると言えばいいだろか。
バカの壁」に心の係数の大きさによって「現実の重み」が違ってくるとある。当事者意識のことだ。美意識という感覚が鍛えられていると、現実の重みを感じやすいのだ。
 
審美眼があれば、心地よい生活を送る選択ができるということなのだろう。