雑記

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文章がうまくなるためには

文章はどうしたらうまくなるのだろう、というのが最近の悩みだ。日常的に文章を書くことをはじめた当初と比べると、うまくなったのだろう。だが、いまは少し前と比べて変化しているかというと、実感がない。20時間の法則を過ぎてからずっと横ばいの成長曲線ということだろうか。そもそもうまい文章の条件ってなんだ。

 

うまい文章とは

文章がうまい文筆家はどんな人だろう。小説家やライター、記者、コンサルタント、学者などだろうか。いや、職業よりどんな文章がうまいと言えるかを考えたほうがいいだろう。

では、文章がうまいとはなにか(芸術性は置いて考える)。

ぼくの考えでは3つある。

 

ひとつは、読み進めていてストレスが少ないことだ。

読者に違和感を与えたり、一時停止して確認したり、読み直したりさせると負担が増える。もちろん読者の知識レベルによっては、書かれていることを理解するために立ち止まることはある。が、その要因以外では極力手間をかけさせるべきではない。気づいたら読み切ってしまった、となればストレスが少ないと言えるだろう。

 

もうひとつは、わかりやすいことだ。

レトリックが適切だったり、表現が的確だったり、的を射た視点だったりと理解しやすい文章であることが望ましい。文芸のように、ひとつの解釈でなく複数の文意が読み取れるような文章がいいとされることもあるが、それは芸術分野としての役割である。

もちろん、文字は会話と違って脆弱なものであるため、人によって解釈が生まれてしまうのは仕方がない。しかし、誤解が生まれないよう配慮して表現すべきだと思う。

 

さいごは、素材だ。

何を語るか。その材料の選定がいいものでなければ、うまいとは言い難い。本質でなく、表層を選んでも意味はない。なぜなら、文章はなにかを伝えるコミュニケーションの手段だからだ。つまり、目的があるやりとりだ。その目的とズレたことを書き表しても、文章そのものに価値はないのだ。

 

うまくなるためのディテール

うまい文章の条件はわかった。が、あくまでうまい文章が備えているものにすぎない。なので、その他にうまくなるのに必要なものを考えたい。

やはり、文法と文章の引き出しは必要だろう。文法が適切な使い方をされなければ、読者が誤った理解をしてしまうし、ストレスもかけてしまう。文章の引き出しのパターンが少なければ、途中で飽きたり退屈してしまう。それを避けるために、最低限取得しておく技術だと思う。

 

ではどうするか

条件だったり、身に着ける技術だったりと述べてきたが、それだけで文章がうまくなるのかというとそうでもない。ビジネスで使う文書であればフォーマットがあれば問題ないが、文章というと定型なものだけで十分とは言えないだろう。それはことばが成り立ち、規則が決まっていく過程を見ればわかる。

たとえば、文法の規定のされかたは、大量の文章を集め共通点を探し、例外はあるがだいたいこういうものだろう、と決められた。

 

そもそも文章に決まりというものはなかったのだ。それを無理やりつくるものだから、不都合がでてくるのだ。もちろん、おおよそ法則に従って書くことは正しい。しかし、時代の変遷とともに考え方も変わる。明治では名文と言われたものが、必ずしも現代で名文と言えないのはそういうわけだ。

結局、良書と言われるものを読み、自身で規定して書いてくしかない。ちなみに、文筆家の千田琢哉は大学4年間で1万冊の本を読み、宮沢賢治は1ヶ月で100万字を書き続けたらしい。ある意味ルール無用の世界と言えるのだろう。