雑記

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良い文章とは何か?名文とは何か?

名文・悪文とは、文章の美しさで良し悪しを判断されていると思う。確かに小説家が書いた文章は美しいし、エンターテインメントがある。ただしこの名文の文脈とは、情緒があり、感動を引き起こし、カタルシスが感じられるような文章のことを言う。

 

ここで考えていきたいのは、商業出版、つまり一般書籍や雑誌で使われてる文章だ。それらのどれが良い文章であるか、ということだ。

では、商業的に良い文章とは何か。

ぼくは読了されるのが、良い文章の条件だと思う。小説のように難解であったり理解しずらい文章であっても、むしろその方が名文であるという考えは、商業出版にはない。詳しく説明する。

 

良い文章の条件は主に3つある。

ひとつは、論理性だ。論理が頑強であるからこそ、読者は余計なことにリソースを使わずに読み進めることができる。ストレスがかからないので、途中で離脱してしまうことも減る。

もうひとつは、的確な表現だ。書かれている内容で、どうしても専門的な込み入ったことを書かなければならない時がある。その理解を助けてくれるのが、的確な表現であり比喩と祝えるものだ。これらがわかりやすく、的確であるほど、読者の離脱率は下がり、満足度はあがる。

最後は、エンターテインメント性だ。いくら上記ふたつが優れていても、面白くなければ読まれる確率は減る。面白いかどうかは、話の希少性などにかかわるので説明を省くが、ひとつ言えることは既出のものは面白くないということだ。

 

以上がぼくの考える商業的に良い文章だ。作家ではないので、その人にしか書けない文章や表現などはできない。しかし、他のアプローチで楽しませることは可能なはずだ。

アーティストとクリエイターとの違いも、正確に認識したうえで、何が面白いのかを考えていきたい。

目標達成にはルーティンが必要か

仕事でも人生でも、何事においても効率が求められることは多い。もちろん、その時間や行為そのものを味わうことを目的にしているのであれば、その限りではない。しかし、目的や目標がある場合、どれだけ短い時間とアクションで到達できるかを求められるのは必然だ。

今回の前提として、個人の行動ベースで考えるなら何が必要かという観点で考えていきたい。効率性を求めるのなら、何をしたらいいだろうか。ドンピシャの専門スキル、無駄のないルート作成、足りない知識の取得などパッとでてくるが、それを考えだしたらキリがないので機会があれば別記事で語ることにする。

 

ここで考えたいのはどのように行動すればいいかだ。それを考えると、目標に対してどれだけ行動量を確保できるかが問題だ。なので、習慣的に一定以上の行動を日々に入れ込まなければならない。つまり、年間、四半期、月間、週間、毎日にどう行動を落とし込むのかということだ。

 

これをサポートするのがルーティンというフレームワークだ。月間、週間、毎日のレベルでする行動をあらかじめ決めておくことだ。ルーティンの大切さは、目標を達成した人の多くが証明している。

たとえば、元プロ野球選手のイチロー氏だ。彼は小学生のころプロ野球選手になると決めてから、毎日どのような練習をするかというルーティンをプロ野球選手になるまで実行した。もちろん、日本のプロ野球でプレーしたときも、メジャーリーグでプレーしたときも、ルーティンを定めて練習することは変わらずしていたようだ。

よく習慣が人をつくる言うが、まさしく日本球界を代表するイチロー氏をつくったと言ってもいいだろう。

 

このようなことから、ルーティンを毎日に取り入れることをおすすめしたい。ここで注意したいのが、ルーティンを継続することだ。最初はできていたが、途中から挫折するなんてダイエットなどでもよくある話だ。別途ルーティンが機能する仕組みを構築する必要があるだろう。もちろん、自分の意志力で継続できる人には必要ないが。

最近のぼくは、ルーティンの達成率がよくない。継続できる仕組みを早期に考えていきたい。

ビジネス書を読む理由

ビジネス書が好きだ。編集者・ライターを目指す前の読書家でないぼくは、小説などの文芸よりも実用書やビジネスマンの哲学書を好んで読んだ。こちらのほうが役に立つと思ってたし、なにより刺激に溢れていたからだ。

 

一般の人は、なぜ小説を読むのだろうか。

ぼくの考えはふたつある。

ひとつは、感情や経験を知るためだ。小説は作り話ではあるが、よりリアリティが高い創作物と言えよう。よって、良い作品であれば、現実に即したものが描かれていると考えられる。なので、登場する人物の思想や感情を知れば、現実世界に通用するものがあるだろう。

たとえば、経済小説なら、その業界の深い部分や業務的なことなど描写されるので、そこで働いている人が何を思い、どのような価値観で生きているのかがわかる。また、恋愛小説なら、どこに情緒を感じ、何に愛を感じるかなどを知ることができるだろう(ほとんど、読んだことがないので想像でしかないが)。

もうひとつは、疑似体験するためだ。現実に生きていて、自分がやりたいことをすべて経験することは不可能だ。もちろん、それに近しいことができる人もまれに存在するが、ほとんどの人はそうではない。また、その人らもできないことは必ずある。

たとえば、お金持ちの人が貧困層の体験をすることや、低学歴の人が高学歴の人の生活を知ることなどだ。

 

このように、小説を読む楽しさやメリットは多く存在する。しかし、なぜビジネス書のほうを好んでしまうのか。

ぼくが考えるに3つある。

ひとつは、実用性だ。ビジネス書は、なんらかの専門家が特定のテーマに関する情報をまとめたものであるので、その業界やビジネスに関わる人であれば生かせることが多い。

もうひとつは、娯楽性だ。事実やエビデンス、出来事にロジックがあるからこそ、エンターテインメントとして楽しめる。

最後は、モチベーションだ。ビジネス書はノンフィクションであるので、現実に即したことが書かれている。なので、道半ばで諦めそうなときにビジネス書を読んだり思い出したりすると、この人もこんな時期があったのだと踏みとどまることができる。そして、明日からも頑張ろうとモチベーションを維持できるのだ。

 

ぼくのなかでは、フィクションによる確からしい疑似体験から得る感動より、事実として起こったことに感情を動かされることを好む、そういうことだろうか。

どちらも人生の道しるべとなるので、今後は小説を読み進めていきたい。

モチベーションとは、的を射るアクションであるのか

学生時代は、何かを上手くなりたい、何かを深くまで知りたいということを、効率よく量をこなして結果を出すことはしていなかったと思う。もちろん、結果を求めていたとは思うが、それも含めどれだけ楽しめるか、が主題だったように感じる。それは部活であっても、趣味であっても、友達と遊びに行くのでも変わらなかっただろう。

 

社会人になり、就職や転職、スキルや資格取得のための努力は、そのものを楽しむというよりは目的のために効率的に取り組みがちだ。

なぜだろうか。

それは、目的と手段が分離しているからだ。学生時代は、手段も目的の内にあるので行為を楽しんで取り組むことができた。しかし、社会人になると目的のための武器が手段なのだ。

 

たとえば、読書が好きで、文章を書くのが好きな人がいると思う。ただそれを深堀してみると、自分の好きなトピックを語るのが好き、他には興味がなかったりする。また、小説を読むのが好きで、文章を書くのが好きな人がいると思う。それは、小説の文章を書くのが好きなのであって、文章を書くのが好きとは限らない。そのものが好きという感情が主になっているのだ。

逆に、文章を書くのはそこそこだが文章を書いた結果、いい本を作れるや商品が売れるなどの文章を書く職業の人がいる。彼らは目的達成のために、手段として文章を用いている。もちろん、書くのは苦痛ではないだろうが、人生のなかでいちばん好き!という人は何人いるだろうか。

このような異なる考えのことを、ドイツの社会学マックス・ウェーバーは「価値合理的行為」と「目的合理的行為」という概念で提唱した。

簡単に言うと、好きなものをするのが目的か、目的達成のための手段でしかないか、ということだ。なので、目的合理的行為の行動を起こすと苦痛が伴うこともある。

 

この考えより、なぜ勉強やスキル取得をするか見えてきた。文章を書く行為が目的なのではなく、文章を書いた先にあるものが目的なのだ。書くモチベーションが起きなかったり、やる気がでないのはこれが原因なのだと思う。

東京大学法学部を「オール優」で卒業した山口真由氏は「勉強が苦痛なのはあたり前」と言い、人生の貴重な時間を費やして、楽しくないことに取り組む理由は、「目標を達成するため」だと言う。

何のために、何をするのか。根本の思想を無自覚なままではいれられない。

WEBと紙、媒体の特長

現代ではちょっとした調べものをするときに、ネットを使うことが多いと思う。Googleなどの検索エンジンが発達したおかげで、ネットが台頭した初期より情報の取得が容易になった。日常の生活に関することに関しては、本などの紙媒体を買うことも少なくなったと実感している。

 

ここ数年は出版業界の売上が落ち、活字離れの時代と言われている。ネット上には情報があふれ、前述したように特定の情報を調べるだけなら本などを買う必要もないだろう。このまま、数十年後には情報を紙に印刷することは消滅してしまうのだろうか。

ぼくはそうは思わない。なぜなら、紙媒体にしかない特長があるからだ。

 

では、紙媒体の特長とはなにか。それは拡張性と自由性だ。

まずは拡張性だが、その媒体の中核的な使用方法に、機能を追加することができることだ。たとえば、気になったことばに線を引いたり囲ったり、マークを書き込むことができる。また、とくに重要だと思った箇所を破ったり切ったりしてスクラップすることができる。このように紙媒体は読むという中核的な役割を超えて、さまざまな使い方ができる。

つぎに自由性だ。WEBだとひとつの文字情報を上下のスクルールしかできないが、紙であればその制約に縛られることがない。何百ページもある情報を、1ページ目と100ページ目を行ったり来たりできるし、何冊かの本を同時に閲覧することも可能だ。

 

このように、紙媒体は拡張性と自由性の特長がある。そしてこの特長が向いている分野がある。それは、学習と研究だ。

もちろんトレーダーのように何枚もの画面で情報を見れれば問題ない、ということもあるだろう。ネット情報であれば共有もしやすいし、情報の保存も電子機器のなかで完結するので場所を取られることもなく、持ち運びも容易だ。

しかし、学習や研究のように一定上の情報を行ったり来たりしたりして、テキストやビジュアルなどの情報の切り替えの早さは代替えできていないだろう。学習と研究は、まだまだ紙が強い時代は続きそうである。

便利であることと感情を揺さぶることは両立するか

世の中には自分のできないことを代行するものは無数にある。TVなどのメディアは、自分が知りえない情報を伝えてくれるし、炊飯器などの電子機器は作業を代行してくれるので時間の節約になる。スマホなんかは、連絡が一瞬でつくし、手紙のようを出さなくても相手に書き置きを瞬時に残せる。

このように便利だったり、役に立つものは多い。だからこそ、その対価としてお金を払うのだが。

 

では、価値があるとはどんなものか。

ぼくのなかでは、便利なこと、希少なこと、感情を揺さぶること大きく3つにわけられる。

まず、便利なことについてだ。文字通りとくていの作業に対して、商品・サービスを使うことにより時間を短縮できることだ。たとえば洗濯機は、昭和以前だと手洗いだったものが、機械を使うことにより洗濯時間をほぼゼロにした。

次に、希少ものについてだ。専門性を取得していなければつくれないものである。とくに化粧品や化学物など専門性がなければ作成不可能である。専門性が高ければ高いほど、代替えされづらいので、価値が高まりやすいと言えるだろう。

最後に、感情を揺さぶることについてだ。これは体験を通して、おもしろいや楽しいなどの感情を促すようなことだ。映画や本、テーマパークなどがこれに該当する。それらの何かしらの体験を経て、日常では得ることのでない感情を呼び起こすことが目的である。

 

このなかでどの特性が強くなるかと言うと、便利なことか感情を揺さぶるもののどちらかだろう。希少性は、価値指標のひとつではあるが、主たる軸ではなく従たる軸にしかなりえないからだ。

となると、便利なことと感情を揺さぶるものにわかれる。が、このふたつの性質を十分に備わっているものはほぼない。もちろん、両方の性質を備えているものもあるが、どちらかの色が強くなったプロダクトになると思う。平成までは、どちらかの面が優れており、他と差別化して消費者から受け入れられれば売れていた。

しかし、令和になってからより多様性が加速したせいで価値観も多くなった。この時代に売れる価値観をつくるためには、便利であり、感情を揺さぶるストーリーの両面があるプロダクトが売れる価値観になるのだと思う。

有料と無料の違い

東京都周辺に勤務地がある人たちは、一部の地域では車通勤もあるだろうが、多くの人は電車通勤だろう。乗り継ぐ時間は数分から数時間とさまざまで、基本的に自由な時間だ。なので、その時間の過ごし方も多種多様である。

スマートフォンが普及する前は新聞か読書、メールが多かったと思う。しかし、近年ではみな一様にスマートフォン片手にWEB記事を見るか、YouTube動画を見るかをしている。とくにYouTube動画の情報量はすさまじく、一日に投稿される動画を消費しようとすると約83年かかるらしい。このように、現代では無料の情報やエンターテインメントがあふれている時代だと言えるし、それを通勤の時間をはじめ、余暇などで多く消費されている。

 

お金を払っても体験したいもの

無料と有料のコンテンツの違いを考えていきたい。

無料のコンテンツは、テキストであれ、動画であれ、ゲームであれ、基本的に無料で体験することができる。もちろん、無料の部分を体験した後に有料コンテンツに移行するスキームもあるが、多くは無料で満足できる内容だろう。

なぜ無料でビジネスモデルが成り立つかと言うと、広告が掲載されているからだ。よくYouTube動画でやWEBメディアの広告の量が多いと嘆く人がいるが、その広告があるからこそ無料でコンテンツが提供されているのだ。

なので、構造的にコンテンツにお金を払っているのではなく、コンテンツに集客される人の効果にお金が支払われているのだ。

一方、有料のものは、そのもの自体にお金を払っている。本や映画、遊園地などそれ自体に価値がなければならないのである。

 

このように比べてみたとき、無料と有料の違いはなにかと考えると、やはりコンテンツにお金を払いたいかどうか、だと思う。たとえば、本に1500円払って買いたいかどうかだと、結構ハードルが上がると思う。自分ごととして考えたとき、無料の記事が30本読めるからといって、それに1500円払うかと言うとほぼ払わないだろう。それほどまでに消費者からお金を出させるのは難しい。

自分がお金を払ってでも体験したいものか、引き続き考えていきたいテーマだ。

 

 

 

東京都周辺に勤務地がある人たちは、一部の地域では車通勤もあるだろうが、多くの人は電車通勤だろう。乗り継ぐ時間は数分から数時間とさまざまで、基本的に自由な時間だ。なので、その時間の過ごし方も多種多様である。

スマートフォンが普及する前は新聞か読書、メールが多かったと思う。しかし、近年ではみな一様にスマートフォン片手にWEB記事を見るか、YouTube動画を見るかをしている。とくにYouTube動画の情報量はすさまじく、一日に投稿される動画を消費しようとすると約83年かかるらしい。このように、現代では無料の情報やエンターテインメントがあふれている時代だと言えるし、それを通勤の時間をはじめ、余暇などで多く消費されている。

 

お金を払っても体験したいもの

無料と有料のコンテンツの違いを考えていきたい。

無料のコンテンツは、テキストであれ、動画であれ、ゲームであれ、基本的に無料で体験することができる。もちろん、無料の部分を体験した後に有料コンテンツに移行するスキームもあるが、多くは無料で満足できる内容だろう。

なぜ無料でビジネスモデルが成り立つかと言うと、広告が掲載されているからだ。よくYouTube動画でやWEBメディアの広告の量が多いと嘆く人がいるが、その広告があるからこそ無料でコンテンツが提供されているのだ。

なので、構造的にコンテンツにお金を払っているのではなく、コンテンツに集客される人の効果にお金が支払われているのだ。

一方、有料のものは、そのもの自体にお金を払っている。本や映画、遊園地などそれ自体に価値がなければならないのである。

 

このように比べてみたとき、無料と有料の違いはなにかと考えると、やはりコンテンツにお金を払いたいかどうか、だと思う。たとえば、本に1500円払って買いたいかどうかだと、結構ハードルが上がると思う。自分ごととして考えたとき、無料の記事が30本読めるからといって、それに1500円払うかと言うとほぼ払わないだろう。それほどまでに消費者からお金を出させるのは難しい。

自分がお金を払ってでも体験したいものか、引き続き考えていきたいテーマだ。