雑記

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モチベーションとは、的を射るアクションであるのか

学生時代は、何かを上手くなりたい、何かを深くまで知りたいということを、効率よく量をこなして結果を出すことはしていなかったと思う。もちろん、結果を求めていたとは思うが、それも含めどれだけ楽しめるか、が主題だったように感じる。それは部活であっても、趣味であっても、友達と遊びに行くのでも変わらなかっただろう。

 

社会人になり、就職や転職、スキルや資格取得のための努力は、そのものを楽しむというよりは目的のために効率的に取り組みがちだ。

なぜだろうか。

それは、目的と手段が分離しているからだ。学生時代は、手段も目的の内にあるので行為を楽しんで取り組むことができた。しかし、社会人になると目的のための武器が手段なのだ。

 

たとえば、読書が好きで、文章を書くのが好きな人がいると思う。ただそれを深堀してみると、自分の好きなトピックを語るのが好き、他には興味がなかったりする。また、小説を読むのが好きで、文章を書くのが好きな人がいると思う。それは、小説の文章を書くのが好きなのであって、文章を書くのが好きとは限らない。そのものが好きという感情が主になっているのだ。

逆に、文章を書くのはそこそこだが文章を書いた結果、いい本を作れるや商品が売れるなどの文章を書く職業の人がいる。彼らは目的達成のために、手段として文章を用いている。もちろん、書くのは苦痛ではないだろうが、人生のなかでいちばん好き!という人は何人いるだろうか。

このような異なる考えのことを、ドイツの社会学マックス・ウェーバーは「価値合理的行為」と「目的合理的行為」という概念で提唱した。

簡単に言うと、好きなものをするのが目的か、目的達成のための手段でしかないか、ということだ。なので、目的合理的行為の行動を起こすと苦痛が伴うこともある。

 

この考えより、なぜ勉強やスキル取得をするか見えてきた。文章を書く行為が目的なのではなく、文章を書いた先にあるものが目的なのだ。書くモチベーションが起きなかったり、やる気がでないのはこれが原因なのだと思う。

東京大学法学部を「オール優」で卒業した山口真由氏は「勉強が苦痛なのはあたり前」と言い、人生の貴重な時間を費やして、楽しくないことに取り組む理由は、「目標を達成するため」だと言う。

何のために、何をするのか。根本の思想を無自覚なままではいれられない。