雑記

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常識とはサーフェスウエブみたいなもの

士農工商と聞けば、江戸時代の身分制度として有名だ。いまは歴史学的な観点ではなく、当時学んだ知識を下地にしているということを前提にしている。その文脈で言うと、江戸時代は身分制度が決まっており、武士に生まれたら一生武士として安泰で、農民に生まれたら一生畑を耕す農民として生きていかなければならないと記憶している人も多いと思う。

以前そのことで友人と話したが、全体で見た場合はそのような見解は可能だった。しかし、当時は藩ごとに独立採算制を取っており、農民から商人になることは可能であった。また、家長制度を採用しており、長男は農民を引き継ぐことが多かったようだが、次男や三男は出稼ぎに行ったり、町人に転職したりということもあったようだ。

このように、農民に生まれたから必ずしも農民として生きなければならないわけではなかったようだ。もちろん、商人や工人などになるためには、技術も必要だし、取り立ててくれる人脈のあるなしも大きかったと思う。しかし、転職できるという事実を知っていたり、実際に選択する人は少なかったのかもしれない。その時代の農業は生産性が高いものであったし、税金と飢饉を除けば生きていくのには困らなかったのだと思う。

 

という話を入口に、自分の目的を達成することと常識について考えていきたい。

よく常識的に考えてそれは○○だろ、という常識を論拠に話を進める人がいる。30歳までは好きなことをやっても若いからやり直しがきくよ、だからまだ大丈夫だろ、とか。この仕事は未経験だと就けないんだ、とか。○○歳だと、これをしないとね、など言ってくる人がいる。

いつも不思議に思うのは、何に基づいて言っているのかという点だ。恥ずかしながら、自分も後輩にそのような話をしたことがあり、それを思い出してみた。考えてみると、常識とは、数多くの人がやっている行動のことでしかないのだ。それに付随して、その人から語られるのは、その人の周りで起こったこの集合知でしかない。

このことからわかったことは、常識というのは大多数にいる安心感と、なんとなく正しい意見っぽさから生まれるということだ。もちろん、マナーや法律的なことなど大多数がやっており、それができないと不都合しかないものある。

 

大事なのは、常識という集合知を集めたうえで、どう判断するのかだと思う。それが理にかなっているのなら、いちいち調べなくていい。しかし、違和感を感じるなら、一次情報をもっと集め、判断を下さなければならない。

 

結論としては、目的達成のためにありとあらゆる情報と手段を講じていくしかないんだなあ、というありふれたものになった。精進しよう。