最古の印刷技術が開発されたのは、1世紀のことらしい。ただ、印刷といっても現代のように一瞬でコピー用紙に映し出されるのではなく、版画のレベルだった。それに革命が起きたのは15世紀にドイツで発明された活版印刷技術だ。そのときは印刷機(現代の機械ではなく、機織り機のようなもの)が誕生し、急速に印刷が広まった。
だが、現代のデジタル印刷のように大量作成できるほどではなく、写植と言われる技術のあと登場した、1985年にDTPが始まり、Macintoshが生まれたころが私たちのイメージするデジタル印刷に近いだろう。
印刷を例に紹介したが、技術の変遷の歴史はけっこう長い。
対して知識はどのように発展していくのだろうか。
ニュートンが「巨人の肩にのる」というように、古典を引用したり翻案したりして、その知識を一歩超えたなにかを見つけて、発展していくように思われる。
それは新しいと言えないと言われそうだが、アップルの代表製品のMacintoshなどを見れば、わかりやすい。Macintoshは革新的なPCと言われるが、PC自体はIBMが先駆けで市場を独占していたため、新しいとは言い難い。Macintoshのなにが新しかったと言えば、デザイン性と操作性だ。当時のPCでは情報処理に重きを置かれており、PCのデザインや操作のしやすさに気を配られてはいなかった。しかし、アップルは情報処理の制度を落とさずに、PCにアート的なフォルムと感覚的に動かせるキーパッドなどを導入し、いままでにないPCを誕生させたのだ。これこそイノベーションの最たる例と言えるだろう。
このように元々ある要素を組み合わせて新しいものが出来た事例は多い。そう考えるならば、引用や翻案した知識も「新しい」部類に入るのではないだろうか。
たとえば、日本最古の物語の「竹取物語」がある。日本独自に成立した作品と考えられそうだが、内容の類似なものが中国の「嫦娥奔月」月の話や「神異経」の小人の話などに見られる。当時の日本は中国に多くの影響を受けており、著者の着想になったのだろう。参考にしたものはあるが、著者が日本由来にアレンジしており、起源を調べなければ引用や翻案だとはわからない。
優れた作品は優れた作品を参考につくられていることがわかる例だと言えよう。そしてそれは剽窃ではない。
という話を切り口に、新書と古典をどう読むかを考えていきたい。
まず、ぼくの考える古典の読む意味は普遍性を理解することある。
普遍性に関しては、新しいものがつくられる過程を見ると、なにかしらルーツになるものがあるので、それを知ることが現在の事象を深く理解することに繋がる。また、複雑に絡み合った構造や背景を理解する一助にもなることだろう。その事象がなにを根拠にして語られているかがわかるため、本質をとらえることもできる。
こう聞くと、古典を読めば新書を読む必要がないように思える。が、新書には古典にない価値が3つある。
ひとつは、古典の先の新しいなにかだ。Macintoshの例のように、既存のものを組み合わせて新しい製品や考え方をつくることができる。
もうひとつは、時代性だ。古典はぼくたちの生きていない時代を背景に知識や論理が成立している。なので、理解がしにくかったり論理の文脈を調べたり、読み込むのに時間がかかる。その点では、新書はいま書かれているので、その心配はない。また。いまの事例で説明されているため、より理解が深まることだろう。
最後は、体験や解釈だ。その著者しかしていない体験や、それをもとに解釈されることは独人のものであり、古典にはないものだ。ぼくはこれが親書を読む意味としてはおおきいと考えている。
古典も新書も等しく価値のある情報だ。しかし、もととなる知識や技術がなければ、新しいものや独自のものをつくるのは難しいだろう。まずは、古典でベースをつくることをしたい、ぼく自身が。