雑記

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常識と審美眼の相関関係

日本人はみんなと一緒がいいとよく言われている。いわゆる、常識的に正しく、周囲と同じ行動を求めがちだ。しかし、欧米諸外国では、常識として「みんなと違うこと」を教えられる。みんなと一緒であるとこは、個性的でないと考えるからだ。そんな西洋の考え方が日本に浸透して約70年経った。若い世代は、どこか人と違って個性的な自分でありたいと思うが、年配の世代が周囲と違った行動を許さない。そんなふたつの価値観が入り混じった時代だと思う。

 

さて、ここで一般的に浸透している考えを紹介しよう。それは企業の終身雇用だ。近年では、終身雇用が崩壊していると言われるが、3割の人がひとつの企業しか働くことはないという。たしかに、大企業なら倒産の可能性は低いし、そのほうが安全な選択で、正しい考えだと常識的に判断されるのもわかる気がする。

しかし、終身雇用とは日本の慣習的な制度ではない。導入されたのは、昭和初期ごろだ。そして、高度経済成長期に人材の囲い込みのため、福利厚生を充実させ、考えが定着していったというのが背景だ。つまり、昔からあった日本特有の慣習ではなく、100年も満たない新しい考え、というわけだ。逆に言うと、70年くらいあると、常識として浸透するという気づきにもなる。

 

この構造を入口に常識に従うことは、人生において特になるのか、損になるのか考えていきたい。

その事例として出すのが、婚約指輪だ。その値段は「給料の三か月分」といったフレーズから、常識と言えるかわからないが、ひとつの基準となっていると思う。実際、私の友人はそれくらいの指輪を買った。が、彼の不幸だったことは、指輪を送って半年後、婚約を破棄されたことだった。いまは結婚していて幸せそうだが、当時の彼の落ち込みようはひどかった。

なにが言いたいかというと、指輪の行方だ。婚約破棄されたのだから、指輪は必要ない。一度送ったとはいえ、婚約が解消されるのだから、変換されるのは考えられることだろう。そして必要なくなった指輪は売却された。のだが、売価は二束三文だった。なぜか。

指輪の命ともいえる宝石の値段がその程度だからだ。ということは、婚約指輪の主なコストとは、人件費だと言える。では、その価値とはなにか。それは、婚約から結婚のイベント料金だと思う。そうでなければ、ほぼ新品同様であるのに、売価の五分の一、下手したら十分の一の値段になるはずがない。

この構造が知られず、ビジネスモデルとして成立しているのは、若い時分で婚約破棄されることが珍しいし、将来離婚することになっても、何年か経ったあと指輪を返せなど言わないだろうし、母数が少ないうえに声を大にして拡散されなかったからだと思う。

 

たしかに、常識と言われていることに従えば、楽に生きれる。それに従う人が多いので、安心感もある。

だが、果たしてそれが人生のプラスになっているだろうか。そうは思わない。常識という文化は、支配者層に都合のいいルール押し付けられる側面があるとからだ。なのでわれわれは、常識を読み解く観察眼が必要だ。美しい側面だけで判断するのではなく、本質を見抜く審美眼が必要なのである。